「孫ちゃんはこれからできることがたくさん増えて楽しみだね。私たちなんかできないことが増える一方だよ、ははは」
スマホの画面越しに義母が笑っていた。
先日の母の日に、私と夫それぞれの両親にビデオ通話をした。今流行りのオンライン帰省・・・というものの定義がよくわからないが、贈り物もできなかったためせめて顔だけでも見ようと連絡を取ったのである。
産まれてしばらくの娘は仰向けのまま手足をバタバタとさせて寝るか泣くかの日々だった。
当時はこの先娘が自分の意思を持って何か行動をすることの想像ができなかった。
そんな娘も現在生後8ヶ月。
興味を持ったおもちゃには手を伸ばすし、私が椅子に座ってパソコンを使っていたら足元に寄ってくるし、トイレに立とうものなら大声で泣きながらトイレまで這ってくる。まんま、まんまと何かを話しているようにも聞こえる。つかまり立ちもできて、一緒に笑ったり驚いたりすることもできる。この世に生を受けて8ヶ月で、子どもはここまでできることが増えるのかと驚く日々だ。
両親や義両親にはたまにしか電話をしないから、電話をするたびに娘が成長しているのが嬉しくてたまらない様子である。
「孫ちゃ~ん!孫ちゃ~ん!つかまり立ちできるの?すごいね!この前やっとお座りできたと思ったのにね!」
と大興奮の両親たち。どちらの両親にとっても娘は初孫だから可愛くて仕方がないのだろう。
そんな娘を見ていて、義母がふいにつぶやいたのが冒頭の言葉だ。
「孫ちゃんはこれからできることがたくさん増えて楽しみだね。私たちなんかできないことが増える一方だよ」
それはわかっている。わかっているんだ。子どもは成長し、両親は老いていくというのは。
でも、なぜかこの言葉が私の胸に刺さった。当たり前のことなのに、なぜだろう?数日は考えていた。
きっと、どんな物事にも寿命があるという、この世の定めを突いていたからなのかもしれない。新しいものは期待され、古いものは余力がなくなっていくとうことだ。
新しいものは、その時点でできることが少なくても今後の成長が見込まれる。一方で、古いものは本来の力を十分に発揮できなくなるがそれまでの間役割を担ってきた経験が積み重なっている。
それを思うと、人間が老いる様子を(物理的なものではなく)近くで見ていられるのは子どもの権利だと思う。人間がどのように老いていくのか、親は子どもに教えてくれているんだ。
私たちは多分、そこから何かを学び取って自分の子どもに伝える役割があるのだろう。
老いとはそこまで生きてきた証だ。60歳を過ぎた義母は自分の老後を嘆いて冗談交じりに言った言葉なのかもしれないが、老いを経験できることはすごいことだ。
そして、親になった私にできることは、娘が老いを経験できるまで生きられるように命を守ることだろう。また、自分が人間の自然な老いを娘に見せられるように健康に気を付けなければならない。
娘はどんな大人になるのだろう。どんな顔をしてどんな言葉を使うおばあちゃんになるのだろう。しわや白髪はあるのだろうか。
あぁ、娘の人生を見届けながら生きていきたいのに、娘の老いる姿を見ることは私にはきっとできない。私にできることは、娘が成長していく姿を見ることだけなんだ。
そう思うと、今朝家族3人で過ごした時間も映画のフィルターがかかったように色褪せて見えてきた。もう戻れない過去だ。義母の一言が私をハッとさせた。
この子もいつか老いるときが来るんだ、と思いながら生きてみるとどんな些細なことも見逃せずに生きていける気がする。