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楽しむことの天才

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「あ!立った!立ったよ!今、1人で立ち上がった!」

これはこの週末、私と夫が最も興奮して叫んだ言葉だ。
現在生後8ヶ月の娘は、私たちが何かにつかまらせると自分で立てるようになっていた。ちょっと前に「一人で立ち上がれるようになるのも、きっともうすぐだね」という会話を夫としたのを覚えている。

その会話から確か週末が2回過ぎていったくらいで、娘は何かつかまるものがあれば一人で完全に立ち上がれるようになった。

これは娘が生まれて初めて気づいたことなのだが、一度何かができるようになった子どもはその後の貪欲さがすさまじいと思う。(もちろん個人差はあると思うが。)

1人で立ち上がれることを知った娘は、今、立ちたい気持ちに満ち溢れているようだ。ちょうどいい高さのものを見つけると、すぐに手足に力を入れて立ち上がろうとする。そして「立てたね!」と声をかけようと娘の顔を見ると、「ドヤァ!」と声が聞こえてきそうな笑みを浮かべている。

「ふふ、私、もう立ち上がれるもんね。できちゃった。やっちゃった」と言っている気がする。倒れても、またすぐ立ち上がる。それの繰り返し。むしろ座らせたままだと娘が泣いて怒ってくる。

私はそんな娘が羨ましい。

いつからだろう。「自分にできることが増えることは楽しいことだ」という気持ちに気づけなくなったのは。というか、そもそも私はこの気持ちを持って生きてきたのだろうか。

学生のときはどうだろう。解けなかった問題が解けたときは楽しかった?当時流行っていたという理由で入部したバスケ部では苦手なシュートが入ると楽しく感じられた?社会人になり未経験の仕事ができるようになったときは?

いや、どれも私は心から楽しめていた記憶がない。

例えば学生のころは、「良い成績をとること」だけを考えていた。別に誰かにそれを強要させられたわけでもないが、そうすることしか知らなかった。それが与えられた役割だったから、それをこなしていた。勉強を楽しいと思ったことはなかった。ただ、将来希望する学校に行くための、数字のための勉強だった。

社会人になり希望の職につけたが、できないことができるようになって楽しいと思えたのは少しの期間だけだった。1人立ちできるレベルに到達したあとは、「できるようにならないと恥ずかしいから」という理由で新しいことに挑戦していた気がする。言うなれば、消極的挑戦という感じか。

初めて作る料理が美味しくできた、効率良く掃除ができるようになったなど、今でも「できるようになった」ことはいくつもある。けれど、「楽しい」という形容詞を伴ったものはパッと思い浮かばない。

だから、娘を見ていてとても羨ましく感じる。

私も、できないことができるようになって、顔がしわくちゃになるくらいの笑みを浮かべたい。できることが増えて夢中になれるくらいのものが欲しい。
なぜ私は今まで「できることが増えるのは楽しい」と思いながら生きてこられなかったのだろう。
そういう家庭環境ではなかった、周りにそういう人がいなかった、そう思えるものに出会えなかった。理由は何とでも言えるけれど、とにかく私は「できないことができるようになると楽しい」という気持ちの大切さに気付かなかった。

だから、ただひたすら最近自分ができるようになったつかまり立ちをキャッキャ言いながら繰り返している娘は、確実にこの家の中で”楽しむ”ことが一番上手な人間だ。

あっ。私にも、楽しめているものがあった。
「子育て」だ。
人を育てるという初めての経験を、これ以上ないほど本当に心から楽しんでやっている。

娘、いつもありがとう。

2020年5月18日 note

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